冬月直樹(男子9番)の母・冬月幸子はプログラム優勝者だ。
当時、40名程度のどこにでもあるクラスに所属していた彼女。それがプログラムに巻き込まれたのは修学旅行1日目の夕方だった。バスでの移動中に専守防衛軍に拉致されたのだ。
大抵の優勝者にとってプログラムという出来事は悲惨な体験以外の何物でもないが、彼女も例外ではない。彼女は当時、陸上部でクラスにおいても体育会系グループに属していた。そのためプログラムでもグループのメンバーで合流し、前半は安全に生き延びることができた。しかし残り十人前後になった所で、恐怖に支配された友達が突発的に仲間を襲い始めたのをきっかけに殺し合いが始まってしまい、彼女自身は拳銃片手になんとか逃げきったものの、その際に仲の良い友達を何人も見殺しにしなければならなかった。
号泣しながら我を忘れてさまよっていく彼女を見逃すほどプログラムは甘くなく、何人ものクラスメイトが殺しにかかってきた。裏切られたショックが積み重なり、彼女は自暴自棄になって撃ち殺していった。皮肉なことに捨て身の攻撃が逆に彼女を延命させ、着実に優勝へと導いていった。
文字通り、どん底まで落ちた幸子のことを助けてくれたのは一人の男だった。普段はまったく眼中に無かったその男とプログラムの終盤に出会い、彼女は再び生きる希望を取り戻した。彼は残り人数がもう5人を切り、優勝を目指した方がよほど堅実な状況であっても、まだプログラムに抗おうという意思を捨てていなかった。冷静に見れば現実を見ずに、未だ青臭い理想を信じきった馬鹿だったのかもしれない。でも幸子は絶望に沈むことしかできない自分と比べ、彼に強さを、希望を見出したのだ。
だが、そんな彼も結局は死んだ。木が生い茂る狭い小道にて最後の敵と出会った瞬間、彼は幸子を近くの急坂に向かって叩き落したのだ。ヒロインを庇って戦うヒーローのつもりかどうかは知らないが、どちらにせよ彼が生きていたら幸子はこの行為に対して猛烈に怒っていただろう。だが、実際はそうはならなかった。彼女がやっとのことで坂を登ってきた時には両者ともお互いの銃弾によって絶命していたからだ。驚きと哀しみのあまり涙を流すことすら忘れて呆然する彼女に対して、担当官の声が会場に響き渡る――
あれから17年。幸子は1998年の今、32歳だ。15歳の息子を持つ割に若すぎると自分でも思うが、それ以外は表向き専業主婦である。朝は6時半に起きて、夫の哲也と一人息子の直樹のために朝食と弁当を用意し、出かけるのを見送った後はのんびりと家事をしている……と見せかけて、大抵は自室のノートパソコンを起動する。
パソコンの起動画面を見ると同時に彼女の暗い情念も表面へ現れてきた。どんな手を使ってでもプログラムを無くすという熱意はあの日以来未だ薄れる事が無い。その思いは彼女を反政府組織に向かわせ、この国の裏の部分との戦いに10年以上も身を投じることにも繋がった。
ふと、側に置いてある写真立てを見つめた。今から大分前に京都の有名な寺に訪れた時のもので、夫と自分、そして息子が本堂の前で笑っている。周りの木々は赤や黄色に色づき非常に綺麗だ。
10時過ぎだっただろうか。リビングでインターホンが鳴った。彼女は宅配便でも来たのかと、ごく普通にインターホンに出た。
「あの、私ですね、専守防衛陸軍に所属している渡辺武則と申しますが――」
彼女の背筋が目に見えるほど震え、一瞬意識を失いかける。まさか。
「冬月直樹君の所属する、関西追手陵中学校3年8組について是非ともお知らせしたいことがございます」
「もうそれ以上言わないで」と叫びそうになった。早すぎる! まだ4月になって1週間しか経っていないというのに。彼女は出来る限りの努力をして、落ち着こうとした。
「……はい。ちょっとお待ち下さい」
インターホンを切る。深呼吸をする。覚悟を決めるまでに数秒。いや、隠したままにすべきだ。今の自分は冷静ではない。目の前の兵士に銃弾を食らわせようとするなんて愚行もしかねない。
つっかけを履いて、彼女は扉を開けた。
「えー、本日、直樹君が通われてる関西追手陵中学校3年8組は、専守防衛軍が実施する共和国戦闘実験第68番プログラムの今年度第1号に選ばれました」
想像していても辛い言葉だった。その後の言葉はろくに覚えていない。どうせ、既に知り尽くしたプログラムについて丁寧に説明しただけだろうから、別にどうでもいいけれども。
話から解放された後、彼女はリビングの椅子に座りこみ、考え事をしていた。泣いたり悲しんだりしている暇は無い。プログラム以降の人生はこういう時に何かをするために費やされてきたようなものだ。もし今度も何も出来ず、みすみす直樹を死なせてしまうようなことがあれば、自分の生涯とは一体何だったのか一生悔やまなければなくなる。
彼女はプログラムに介入する以外の選択肢が無いことをはっきり悟った。早速、携帯を取り出してメールを打つ。全ての思いを込めて、たった一文を書く。
「直樹がプログラムに巻きこまれた」
送信。ちゃんと送れたことを確認して、彼女はパソコンの前に再び腰を降ろす。宛先は彼女達の所属する反政府組織の幹部だ。
さらにFTPソフトを起動して「Underground News」のファイルをダウンロードし、HTMLエディターで弄り始める。彼女は彼の監督者としてサイトを指導していたので、HPスペースにアクセスするのに必要なパスワードを知っていたのだ。
サイトは直樹ことJackが運営していることになっているが、あくまで管理人・編集人に過ぎず、反政府組織の広報塔というのがその正体だ。幸子はJackが急用のためしばらく代理人が管理すること、今年度の第1号プログラムについての情報を書いて、サイトにアップロードした。常連がまた適当に情報をネット中にバラまいてくれるだろう。
(全てが終わった時にプログラム脱走事件のニュースを載せられればいいのだけど)
そんなことを考えながらハッキングの下準備をする。
(例え哲也と2人だけでも絶対に戦わなきゃ。そうでなければあの子の親なんて言えない!)
パソコンの画面に向かう彼女の瞳には、強い光があった。