1998年4月7日、火曜日。空はひどく澄み渡っていて、雲は一つもない。風も穏やかで、爽やかな朝。
昨日、西大東亜一の超名門私立校である私立関西追手陵中学校では始業式が行われ、今日から生徒達は本格的に1学期を開始しようとしていた。小畑裕司(私立関西追手陵中学校3年8組男子3番)もまた例外ではなく、気合を入れて8時前には学校に着いていた。遅刻常習犯である彼がこの時間帯に学校に来ているなんてことは、そう年に何度もあることではなかった。
誰もおらず、がらんとした教室の風景を想像しながら、裕司は新しく自分のクラスとなった8組の教室を覗いた。教室の中には真新しい机や椅子、教卓が置いてある。そして2つの机の上に通学鞄があった。こんな朝早くから学校に来ているのは一体誰なのか気になり、視線を教室の外につけられたベランダへ向けると、1人の男子生徒がベランダから見える風景を眺めていた。
やや冷たい印象を受ける顔に少し伸ばした髪。背は164センチの裕司より明らかに高い。体格はそれほどゴツくもない。
冬月直樹(男子9番)。
クラスの皆からノリと面白半分で学級代表に推薦されてしまったものの、別に嫌がる様子もなく、誰もなりたがらないクラス代表に就いてしまった変わり種。彼は3年になって東京の方から引っ越してきた転校生だ。
「よぉ。ジャック!」
裕司はカバンを自分の机に置き、特定の人間にしか通じないあだ名で直樹を呼ぶ。呼ばれた直樹はすぐに振り向き、少し苦笑いしつつそれに答えた。
「おはよう裕司。あのさ、他人もいる前でそのあだ名で呼ぶの止めてくれよ。恥ずかしいなぁ、もう……」
こそばゆいといった表情で頭の後ろを掻く直樹の言葉に合わせるようにして、ベランダの入り口の戸の陰から男が顔を覗かせてきた。髪を少し茶色に染めて立てており、無表情だった。
不良グループでも特に目立つ彼を裕司が知らないわけがない。いや学校中でその名前を知らない者がいるのだろうか。彼の名は後藤大輝(男子7番)。背がそこそこ高くはっきり言って2枚目で、茶髪が印象的だが、それよりも文武両道でスポーツも勉強もできる超人として知られており、周りから畏敬の目で見られていた。
「よぉ後藤。今日は早いな」
「ああ。ところで、小畑は冬月が『Jack』だということを知ってたのか?」
後藤は意外な話題を振ってきた。
「あれ?後藤も知ってるのか?『Underground News』の読者?」
「そうだ。わりとよく見てるぞ」
平然とした様子で答える後藤。「Underground News」とは裏社会系ニュースを集めたインターネットサイトだ。「Jack」とは管理人の名前で、利用者の大半は知るまい――まさか管理人が現役の中学生などとは。
「へぇ~。俺も常連でさ――」
驚いた様子を隠さず話しかける裕司と、珍しいものを見たという表情ながら満更もなさそうな後藤を見つつ、直樹は少し笑って感謝の言葉を口にした。
「いつも御愛読ありがとうございます!」
その後、しばらく妙なメンバーでアングラな話をして盛り上がっていると、2人の女子が教室に入ってきた。
女子バスケ部で裕司の幼なじみの荒井里佳(女子2番)と、同じくバスケ部で里佳の親友でありもう1人のクラス代表の愛沢七海(女子1番)だ。
「あれ~!?裕司、今日は早いねー!」
出会い頭に里佳からそんなことを言われ、裕司はちょっと苦笑いをしつつ肩をすくめた。
「ああ。3年になったし、これから先、遅刻するつもりないんで!」
この一言を聞いて里佳はいきなり笑い出す。
「えーっ!? いや、裕司には無理だって! 去年もそんな事言い出して1週間も持たなかったじゃん」
さらに女子がまとまって教室に来た。
背が低く大人しいが、最近眼鏡からコンタクトレンズに変えてイメチェンした一條早紀(女子3番)。
現生徒会長で、成績優秀、さらに美人なので男子に人気な伊吹彩花(女子4番)。
眼鏡をかけたインテリ系で、顔からしていかにも気の強そうな大西優子(女子5番)。
陸上部で成績がとても良く、一目で姉御肌と分かる新山未来(女子8番)。
そして、その新山といつでも一緒にいて子分と見なされている若宮尚子(女子12番)。
男子は後藤と直樹と、自分の3人だけ。
裕司はホームルームの時間まで散歩することにした。渡り廊下にさしかかると、職員室のある東館に向かって進む。反対側から背が高くておとなしそうな男が歩いてきた。裕司の頭に栗田佳彦(男子6番)の名前が浮かんだ。確か野球部で1番打者をやってるはずだ。
挨拶し損ねて後ろ姿を眺めていると、栗田が手に黒い大きな学級日誌と出席簿を持っているのに気づいた。確か栗田は今日の日直だったはずだ。
階段を下りて1階へとぶらぶら歩いていくと、速いスピードで階段を下りてくる足音が聞こえた。それは裕司を見つけると少し焦った様子で叫んだ。
「ここにいたのか、裕司っ!また森垣が暴れてるんだけど……」
振り返ると、裕司の小等部からの大親友でちょっと太っている大村真(男子2番)だった。
「おいおい、またかよ~!」
この学校の不良グループのリーダー、森垣英二(男子11番)の日課がまた始まったかと思うとうんざりするしかなかった。森垣は喧嘩が相当強く、キレやすい性格でムカついたら人を殴る癖がある。
「やられてるの、ウチのクラスの和人なんだけど間に入ってもらってもいい?」
「……ごめん、和人って誰?俺、知らないんだけど」
「ああ、裕司は一緒のクラスになるの初めてだったのか。吉崎和人(男子12番)だよ。陸上部だけどかなりこっぴどくやられてるんだ」
8組で森垣を止められる奴といえば裕司以外だと、"柔道王"佐々木健一(男子8番)か、本人の性格からしてあり得ないが後藤ぐらいなものだ。2人はなるべく急いで教室前廊下に戻った。
教室まで戻ってきた裕司と真を待ち受けていたのはある意味予想通りの光景だった。森垣英二(男子11番)を筆頭とする不良連中の取り巻きである松本祐太(男子10番)が囃し立て役に回っており、上原忠明(男子1番)に至っては一緒になって倒れている生徒を足蹴にしていた。
裕司が止めに入ろうと足を動かそうとしたその時、この騒ぎを見ながら考えこんでいる直樹の姿が目に入った。彼は決心がついたように軽く頷くと、ずかずかと森垣に近づいた。嫌な予感がした裕司が叫ぶ。
「止めろ、直樹っ!」
当の本人はこれを無視すると森垣の傍に歩み寄って、ぽんぽんと肩を叩いた。森垣は蹴りを止め、直樹を不審げな顔つきで睨みつけると、荒っぽい声で脅した。
「ああ? お前何なんだよ。邪魔すんな!」
気弱な生徒ならば一瞬で震え上がるだろう剣幕に直樹はまったく動じず、いきなり森垣の右頬を張った。スナップを利かせた一撃はひどく痛快な音を廊下に響かせる。誰もが目を疑った。
一方、森垣の方はただでさえ威圧感を与えている表情が、さらに引きつっていた。
「てめぇ……ふざけんなよ!」
いきなり森垣が叫びつつ右腕をぶん回して本気のフックを放った。顔面を狙っているが、直樹はごく当然のように左腕を上げてしっかりとブロックすると、お返しと言わんばかりに右のジャブを顔面に放った。森垣はガードされた上にまさかすぐに反撃が飛んでくるとは思わず、慌てて拳を両腕でブロックする。……がこれは誘いの手。ノーガードになった腹部に直樹はすかさず強烈なボディーブローをぶちこんだ。
「おぇっ!?」
入学以来上げたことがないであろう悲鳴を上げ、ふらつく森垣。直樹がさらに右フックを振るうと、森垣は無様に吹き飛び尻もちをついた。
「うううええっ!……おえっ……げほっげほっ……」
誰がどう見ても圧倒的なKO劇。その光景を見た裕司はひどく痛快だった。
佐々木健一(男子8番)が慌てて森垣に近寄って状態を確認していた。直樹は地面に倒れている森垣をちょっと眺めると、振り向いて裕司の方を向いて少し顔をしかめさせた。裕司は振り向く。
「中学生にしちゃ見事だな」
廊下にスーツ姿の2人の男が立っており、その内の1人が無表情で直樹のことを褒めた。胸には政府関係者であることを示す桃色のバッジがつけられていた。
「やっぱり優勝候補は違うようだな」
そのおかしな様子に気づいた生徒達が先生と男を見ていた。そして裕司の予想は当たっていた。階段の方から十数人の武装した兵士達が、不気味なまでに整列して教室に向かって歩いて来たのだから。